日本で活躍した戦国武将「六角義賢」キャラクター。
六角義賢公は、南近江の大名。観音寺城主。
義賢公は弓術を吉田重政(日置流)に学び印可を受けた弓馬の名手と言われている。
父・定頼と伴に足利義晴・義輝や細川晴元を援助して三好長慶と渡り合った。父の死によって家督を継ぐも、その6年後に息子の義治に家督を譲り出家する。承禎と号し裏から実験を握り続けた。
北近江の浅井を従属下に置く事もあったが、浅井長政に大敗を喫してしまう。
1563年。長男で当主である義治が人望も厚い重臣後藤賢豊を惨殺するという愚行を行い、この観音時騒動にて家臣から急速に信頼を失ってしまう。その後、浅井家からの攻撃、さらには織田信長に攻められ、義賢・義治父子は観音寺を追われ甲賀に逃亡した。流浪中の詳細は定かではないが、キリシタンの洗礼を受け、晩年豊臣秀吉の御伽衆となった。