日本で活躍した戦国武将「加藤清正」キャラクター。
表の並木には桜を、裏の並木には栗を
清正公が熊本にて寺を建立した際、寺の前に桜を裏に栗を植えた。桜は人々を楽しませ、栗は備荒食・薪になる。このように清正公は両面の心がけを大切にしていたのだった。
肥後熊本藩初代藩主。福島正則らとともに、豊臣秀吉に小姓から仕えた。彼の戦場での活躍は目覚ましく、しょっぱなの賤ヶ岳の戦いでは七本槍の一人に数えられるほどの活躍をし、その後も確実に武功をあげていく。
清正公の力が最も発揮されたのは朝鮮侵略であると言われている。朝鮮北部まで攻めこみ、王子二人を捕虜にするなど、日本の武将の中で突出した活躍をみせていた。この朝鮮侵略時にもともと仲が悪かった石田三成との関係が決定的に悪化したのは有名である。
清正公は豊臣家に忠誠心が厚く、関ヶ原の戦い後も豊臣家を遺そうと苦心した。しかしその思いもむなしく豊臣家は滅んでしまう。その後熊本城主となるが、清正公が築城した熊本城は後世においても高い評価を得ている。