日本で活躍した戦国武将「大谷吉継」キャラクター。
契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも
関ヶ原の最中、盟友平塚為広への返句。主従の契りはこの世かぎりではない。いずれが先に死んでもあの世の六道の辻でまっていよう…という意。
越前敦賀城主。幼い頃より豊臣秀吉に使え、賤ヶ岳の闘いでは、柴田勝豊を調略して内応させ、賤ヶ岳七本槍に匹敵する三振の太刀と賞される活躍を見せる。
吉継公の指揮能力の高さは評判で、秀吉に「100万の軍勢を指揮させてみたい」と評されるほどであった。彼はハンセン病を患っており、崩れた顔を布で覆っていた。また歩行もままならなくなっていったという。そんなハンデのある武将を、皆一目おいていたというのだから、よほど才長け徳高い魅力的な人物であったのだろう。
また石田三成と親しい友人関係にあった。茶会において、伝染病を患っている吉継公が口をつけた茶碗を、他の武将が臆する中、平然と三成が茶をのんだことに感激し、依頼親友となったことは有名な話である。
そして、友情にこたえ関ヶ原において華々しく散っていく。
先見の明もあり、才能、人望も兼ね備えた吉継公。しかし、友情に殉じた義の生き方は現代人の多くの人の心をとらえて離さない。