日本で活躍した戦国武将「大内義隆」キャラクター。
討つ者も 討たるる者も 諸ともに 如露亦如電 応作如是観
討つ人も討たれる人も、人生は露や稲妻のように儚いものだ
大内義隆公は周防国の守護大名、大内氏の第31代当主。
大内義興を父に持ち、大友氏を敗るなどして一時は九州の北部を制圧する程の勢力を見せた。
しかし尼子氏制圧に失敗してから、義隆公は山口に籠り趣味に没頭するようになる。大内家は代々文化的教養のある当主が多く義隆公もその一人であった。
京都風を取り入れた独自の文化である大内文化を創始している。
尼子氏の敗戦の後、もともとの文人傾向が強くなり文治派を重用しだす。これにより、文治派と武断派の対立が生まれるのである。
武断派の代表である陶晴賢の「大寧寺の変」によって義隆公は切腹させられてしまう。
この時実子も殺害された。これにより周防大内氏は事実上滅亡したのである。