日本で活躍した戦国武将「島津義弘」キャラクター。
春秋の 花も紅葉も 留まらず 人も空しき 関路なりけり
散る花、紅葉を敗北した自分自身に重ねた句。関路とは退路の事。よほど関ヶ原の戦がいろんな意味で心に残ったのでしょう…。
猛将島津義弘公は島津貴久の次男として生まれる。島津家嫡男の義久が家督を継ぐと兄を補佐、21歳の大隅岩剣城攻めから66歳の関ヶ原の戦いまで、なんと52度の戦いに臨んだ。
義弘公の武功は朝鮮遠征にも発揮される、あまりの島津軍の強さに敵は「シマンズ」と呼ばれ恐れたという。また、関ヶ原の戦いで西軍にいた島津義弘軍は事情により戦いに参加せず、味方の陣が続々と崩れていき孤立したとき、東軍の大将家康の本陣めがけて突進をしたのである!決死の島津軍に恐れをなし、家康軍は道をあけた…、そして、そのまま島津軍は本国に帰ったのである。まさに猛将の誉れ高い逸話である。